光となる方向


昭和五十四年  三月  四日  朝の御理解

御理解  第  二十一節  「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり」

  信心せよ、信心とは我が心が神に向かうのを信心と言うのじゃと、我が心が神に向かうと言うのが信心だと。けども最後のところが厳しいね。世の光ともなるような向かい方でなければならないと言うのですよね。信心なければ世界が闇なりとおっしゃる。
  だから光になるような信心、または光になるような信心の構えと言うか神に向かう心の状態というものはどういう心の状態を神に向かうと言うのであろうかと。
  只、金光様と唱えただけでも神に向かう事になりましょう。一歩でもムダにさせんとおっしゃるのですから、合楽へ向かって一歩でも足を向けたら、それでもやはり神に向かう事になりましょう。けれどもそれはあくまでもおかげが対照でありましてね、心の中に光が灯るようなね、信心なければ世界が闇、そういうおかげおかげの信心が千万集まったところで大した事はないね。
例えば、ホタルの光のようなものを万匹集めたところで大した事はないでしょう。その辺のところがね、ほの白う明るうなるくらいのことなんですね。けれどもやはり、そこにアツッと感ずるような火でなからないかん。線香一本の火でもね、やはり神様の裏表を貫くことができるでしょうそういう向かい方。神様へ向かうと言うのは、そういう向かい方でなからなければ、私、神様の言うならばお心を貫くような事にはならないと思う。
  そういう心で神に向かう時に初めて心の中に、これが信心の灯であろうかと、光であろうかと思うような心が心に生ずる。それが自分の心を豊かにし、明るくし、安らぎの心を心の中にいつも持ち続けることが出来る。心の中に光がいっぱい、大きく灯るところに、言うならば改めて自分が分かってくる。心の中が真っ暗だとね、どこにほこりがあるやら、曲がっておるやらわからないね。

  昨日は梅の実会でしたが、もうたんびに会員が増えていく。しかも一月の体験をもう皆さんがね、しまえには涙をこぼしながら話されるのに私は驚きました。昨日は三月の節句ですから、若先生の部屋にいっぱいお節句ムードがしてありますから、そこでと言うので毎年それが例になっとりますから、あちらで桜餅ども頂きながらの共励会でした。親教会の大祭をお祭りだけ頂いて帰らせてもらったんですけれども、もう本当に皆さんの信心が進んだなあ、もうこれであなた方が家の中の芯、言うなら梅の実と言うことは辛抱の、家の中で一番辛抱力を持たなければならない若い嫁さん達なんですね。主人に対して、子供に対して、姑親に対して、そして一番の言うならば働きをしなければならない。この調子で皆さんが信心を進められたら、もうおそらくこれは十年後、二十年後には、それこそ合楽の魔女達が沢山増えることだろうね、と言うて話したことでした。勿論合楽の魔女と言うのは、神様を信じて疑わない強い信念の人達のことを言うのです。

  会長であります高芝さんところの娘であります隈井さんが発表してましたが、本当に両親の信心で、もうあまりにも甘えかぶった信心でね、苦労というものを感じたことがなかったからね、只信心しておると言うだけで、自分の心に取り組むと言うことはしなかった。最近は、自分の心が汚れておる事やら曲がっておる事が段々分かってきたとこう言うのですね。信心の光が心に灯るとですね、今まで気づかなかった汚れやら曲がっておる事やらに気がつく。光が灯っておるから、部屋の中にどんなに散らかしておっても真っ暗だったらわからないね、光が灯ると置き物一つでもよがんで見える。ここにごみがあった、いやそれだけではない、花の一つもここに置こうか、といったような心がおこるでしょうが、心が明るくなるから部屋が明かるうなると、そういう事なんです。
  ほこりのあることすらわからない、そういう言うならば心の状態を願いながら、そして神様へ向かうと言うのです。これは神様へ向かうという事、これはまあ、私の日々のことですけれども、朝の三時半に出るまでの私の言うなら心構えと言うでしょうか、言うならば心のコンディションというでしょうか、を確かめます。まず、自分の心の状態を確かめます。頭の調子を整えます。肉体の言うならば調子を思いますね。
  例えば暑かっても寒かっても、その暑さ寒さを感じん位な心の状態であるかどうか。頭は明晰であるか、もう私の頭は朝だけは、も実に明晰なんです。何十年前の事がありありと頭の中に浮かんでくるんです。もうこの頃とにかく物忘れが激しいんです。けども朝の私のコンディションが整っておる時には素晴らしい、自分ながらに驚く位。
  神様に頂くそのちょっとした感じでもそれを逃さない。昨日その事で研修の時に修行生の先生方もみんな参加してました。それから親教会の大祭にも七、八人おかげ頂いた先生方が集まっておりましたから「どうだった、親教会に御大祭を頂いてどう感じどう頂いて帰ったか」と言うような事を、尋ねたわけてございますけども、私は親教会にまいりまして一番初めに、せっかくお参りをするのですからね、ありがたいものそして何かを頂いて帰らなければだめ、無駄ですね。
  私はあちらへ参りまして拍手をして御神前に向かった時に、本当に神様の働きをそこにまざまざと見る思いが致します。と言うのは親教会の御神殿の造りです。あれはある方が山をお備えなさって、その桧山の中に両方のここで言うなら柱ですね、ここは大きな桧を割って丸くしたり四角にしたりしてあるんですけれども、あちらのは丸のままです、両方の柱がね。それがもうまっすぐでしかも一様でもう本当に見事です。もう上の鴨居と言うですか、あれが無節です。この辺の山にああいう桧があっただろうかという位に素晴らしいのです。神殿内殿の方の造りというものは、かと言うて今度はあのここの取次の間のここのところの鴨居です大きな、あれは一、二年前に総代幹部の方達が集まって、御造営の金が少し集まったからぼちぼち買っとかんならん、安か材料があるなら買うとこ、と言ったような事からです、その見事な桧が一本あると言うのでそれを買いつけたんです、そして割ってみたところがどうしてこげん節のあるじゃろうかと言うごたる。皆さんお参りになってそれを感じられるでしょう、もう節だらけです。私あれが出来てすぐあれを取り替えさせて頂こうと思うたんです。そしたら神様からお差し止め頂いたからあのままですけれども、言うなら人間心と神心、神ながらと人ながらがこんなにも違うんだという見本をあそこに見るような気が致します。だから結局このお広前は神様が建てなさったんだと御神殿だけはそう思うんです。こちらの方だけは人間が建てたという感じなんですね。そういう意味で合楽の場合は隅から隅までが神様が建てなさったな、と思われる事ばかりなんですけれども、あの両方のあの内殿の柱を拝ませてもらう時に、もうそこに神様が働いてござるというものを感ずるです。そして柏手になり御祈念になるから、もういつも神様を頂くことが出来る  ね。
  例えば皆さんでもです、例えばそれこそ鶴見教会の桜井先生の言葉を借りるなら、神徳がそれこそあふれるようなお広前にお引寄せ頂いても、その感ずる心がなかったらダメです。ここに来て手を洗うときに、もうジ-ンとする位な神様をそこに感じなければダメですね。その為にはね、言うならばまずお参りをしてくるその間の時間が大事です心を整えていない、ね。私は心と頭と肉体と、この三つのコンディションがびしっといく事をこれは前の晩から願って精進いたしますね。
  「日が暮れたら大晦日と思うて」とおっしゃる。日々のそれこそ「朝の清々しさ」をまず頂だかな、そして「家業の行」であるところの昼のご用がです、もう本当に昼の忙しさ、夜の有難さ、「夜の有難さ」と言うのは、今日一日起きたすべての事柄にお礼が言えるかどうかと言うことなんです。

  昨日丁度朝の御祈念の今頃じゃった、ではないでしょうか、あのう日田の竹内さんの車がガラスを割られて、中のハンドバックを入れとったのを盗られておる。そこんにきがよく聞きませんけどもバックの中に宝石が、宝石屋さんですから入っとったと言うのですね。お参りをして来て、しかも御祈念中にしかもあれだけ沢山車が、朝はいっぱい駐車場に入って、次から次にお参りがあっておるのにやるとは、もうずいぶん大胆な泥棒にあって、しかも永瀬さんと正義先生の車、あの立派な大きな車でしょう。その真ん中に置いてあったんです、良い車を狙われるならまだ、両端にあったんです、けれども竹内さんのだけが狙われてしかもゴッソリ盗られたと。

  昨日は「山口  崇」と言うことのね、山は修行、口はしゃべる口、言うなら心の状態と修行の状態が一致しておるかどうか。そこに崇高なまでの「崇」と言うのは「崇高の崇」という字が書いてありますね。いわゆる高度な信心と言う御理解でした。私はすぐお取次願われましたからおねがいさせて頂きましたら、その宮崎の「崎」という字を頂いた。
  「山」を書いて「奇」という字を書いてあるでしょう  ね、奇びなるの奇です。不思議なという字です。宮崎の「崎」という字。今日の修行はもう不思議な不思議な修行として受けなきゃいけないな、神様へ向こうて来てこういう難儀な事が起こった。これはもう不思議なまでの神様の働きであり修行であるとして受けさせて頂かなならん。だからこの事に対してはお礼を申し上げなければならないと言うことになりましょう。例えばそういうような事であっても、なら私としては、お礼が申し上げられる心の状態がなからなければ、今日の御祈念に入られません。

  これだけ信心するのにどうして、朝参りしておるのにどうしてこんな事が起こったと、言うような心の状態ではいけん。言うならば「朝の清々しさ  昼の忙しさ  夜の有難さ」と言うのは、一日を締めくくってね、お詫びするところはお詫びする、願うところは願わせて頂いて、そしてせんじつめたところは一切合切をお礼を申しあげれる心の状態を、夜の有難さそこに寝につかせて頂く、安眠のおかげを頂く、有難い目覚ましのおかげを頂く、自分の心の調子も冴えに冴えておる、肉体もおかげを頂いておると。そういうコンディションを願わせてもろうて御神前に向かうと言うね。
  これは例えば演芸をやる人もスポ-ツをやる人達でも、名人上手と言われる人達は絶対これを実行しとるでしょうね。舞台にでるまでにまず自分の身体のコンディション、心のコンディション状態ね、スポ-ツなんかやる人は特にそうだね。
  今日のコンディションはどうですか、はぁいいです。と言えれるコンディションつくりに精進、それまえに一精進するんです。も  信心においておやです。只いきなり参った、苦しいことを頼むためにといったようなものじゃなくて、お参りをしてくる道中にでもですね、自分の心の状態を確かめながら、御神前に座ったら途端に感じるものがある、そこに生きた神様を感じる心の状態を作っていかなきゃ。神に向かうと言うのはそういう事だと思うんです。そういう心で向かわなければです、最後のところのね「信心なければ世界が闇なり」信心なければ家庭が闇なり、と言うてもいいでしょう。だからそういう心の状態で神様へ向かわせて頂いて自分の心の中に光を感じ、自分の心の中、家庭の中に光をわからせてもらうね。そういう信心が言うならば育って行って初めて、またそういう人達が沢山出来て世の光ともなると言うのじゃないでしょうか。

  「烏合の衆」とこう申します。ホタルの光ようなのが万匹集まったって大した事はありゃしません。線香のような光でもです、それこそ紙の裏表を貫く、  ね。身体に当てれば
  あつっ、と言うような感じのある信心をさせて頂くと言うことが、今日は「信心せよ、信心とは、我が心が神に向かうと言うのは、しかも一番最後の光になるような向かい方とは、おかげになるような向かい方とは、どげんでも構わんね、お取次を頂いてお願いしておかげを頂くと言うならね、けれども家の光ともなろう、世の光ともなろうと言うような信心ならまず一つ、コンディション、貴方の心の状態、肉体、頭、第一心ですね。
  そういう心の状態を確かめながらの神様へ向かうであって、初めて光になるような信心、おかげが頂かれると思うですよね。


                                        「どうぞ」